世田谷区の多摩川氾濫
すぐ下流の世田谷区玉川で多摩川が氾濫というニュースは衝撃的でした。クルマのボンネットが隠れるまで冠水し、身動きが取れなくなっている映像も流れました。
しかしよく調べてみると、このクルマが立ち往生している映像の場所と、多摩川で氾濫があった場所はぜんぜん別の場所でした。つまり世田谷区では複数の場所で冠水があったということです。
これは二子玉川付近より1kmほど下流の、第三京浜の橋があるあたりです。住所は世田谷区野毛や玉堤になります。クルマが立ち往生していたのは東京都市大学のあるあたり(世田谷区玉堤)です。水色の範囲はこの航空写真から冠水跡が見られる場所です。また、第三京浜のすぐ東側にある世田谷記念病院(世田谷区野毛)は浸水して入院患者の移送をしていると報道していたので、この付近も冠水したものと思われます。
この地域の直接の冠水原因は、大量の雨水が下水道に一気に流れ込んで起きた『内水氾濫』だといいます(テレビ朝日「報道ステーション」)。青い線はこの地域を流れる小さな川です。写真の上部中央の等々力渓谷は国分寺崖線の始まりの場所で、崖地から湧水が出ていることで有名です。その等々力渓谷から多摩川に注ぐ川には、さらに左右から崖下の水を集めた小川が合流しています。つまり、この付近は相当な低地であることがわかります。雨水が一気に集中して冠水してしまったのでしょう。また、病院の近くにも排水門(第三京浜の「第」の字の右側)がありますが、これも閉じられて行き場を失った雨水があふれ出たと思われます。
それでは「多摩川が氾濫」と発表されたのはどの場所だったのでしょうか。
二子玉川駅付近で多摩川は野川と合流します。その合流点の中州に兵庫島公園があります。ここも流されてしまい、公園の面影がすっかり消えてしまいました。○で囲んだ部分にはこの兵庫島公園に渡るための通路があり、少し低くなっています。増水した多摩川で 『越水』が起きたのはこの場所(世田谷区玉川)です。 付近の道路や家屋が冠水したようです。
実はこのオレンジ色のエリア、最近まで堤防が整備されていない区間となっていました。いまではすっかり住宅地となっていますが、大正時代、玉川電気鉄道(玉電、いまの田園都市線)の終点で風光明媚なこのエリアには多摩川の鮎を食べさせる料亭がいくつもありました(狛江にも同じように玉翠園などの料亭がありました)。その頃、国で多摩川の堤防を下流から二子玉川まで整備しようということになりましたが、この料亭の経営者たちは景観を損なうということで堤防建設を認めませんでした。
そこで国はしかたなくこのエリアの内側に堤防を築きました。このときの堤防はいまも当時のまま残っていて、都道11号線(多摩堤通り)沿いに見ることができます。しかしここに堤防を築いたことで、それを越えて料亭があるエリアに行くのは不便だということから、「陸閘(りっこう)」を設けて整備されました。
上の写真の中央、道路(多摩堤通り)に沿って緑色に見えているのが大正から昭和初期にかけて整備された旧堤防ですが、一部途切れている場所が見えます。これが陸閘です。
多摩堤通りから見てみると陸閘のところで堤防が切れ、堤外地と行き来するための道路があります。断面はレンガ造りで、増水時のために堰き止め用の板を入れる溝が切られています。今回の氾濫でこの陸閘を閉じたとは聞いていませんが、同じような陸閘は野川合流点手前にもあり、そこは今回の台風で実際に陸閘を閉じたそうです。
ここは久地陸閘(くじりっこう)といい、狛江から土手をずっと下っていくと最後野川合流点手前で行き止まりになりますが、その手前にあります。なぜ世田谷なのに久地(南武線の駅にありますね)なのかというと、おそらく多摩川が氾濫を繰り返していた江戸時代、最初は久地の土地だったところが流路が変わり、世田谷側になってしまったことの名残ではないかと思います。
二子玉川に残る堤外地や陸閘のことは、京浜河川事務所の資料に詳しく説明されています。
二子玉川の堤防未整備地区では、下流から二子玉川駅付近まではつい最近になって旧堤防の外側に暫定堤防(本来の設計より少し低い)を作る整備が進み、2014年に完成しましたが、二子玉川駅から上流の自動車学校がある付近までの約500mについては現在も未整備です。国交省がこれまで何度も住民と話し合いを重ねてきたそうですが、料亭のなき後も景観が損なわれるという理由で反対運動が起き、合意が得られていないそうです。越水したのはまさしくこの区間なので、話の流れも変わるかもしれません。
その他、多摩川の東京都側では、大田区田園調布でも住宅街が腰の高さくらいまで冠水し、住民がボートで救助される様子も報道されました。多摩川の支流の丸子川があふれたということで、600件近い被害があったとのことです。